多目的双方向交流ツール、それがblog
またしてもルパート・ジョーンズさんのところの記事に便乗です。
blogって何?と言われると「日記・・・」というのも違いますし、何かいい喩えがないかな?と思ってたら、ルパート・ジョーンズさんのところの記事中で「交流のためのツール」という言葉が。ただ発表するだけじゃないんですよね、ただ自分の意見を一方的に言うんじゃなくて、自分の意見を発表してそれに対するリアクションもある。
例えばある事について好き勝手に書いたとする。これだけならばblogでなくとも自分で日記サイトタグ手打ちで作って垂れ流すだけでもOK。そういやさるさる日記とかもありましたね、そういう一方通行のツールなら自分の意見を発表してはい終わり、良くて精々レンタル掲示板なんかで同好の志だけで楽しくやられたりとか。あ、自分は元々blogじゃなくて、自分でwebサイト作ってアレしてたクチです、まぁホタル使って作ってたんで胸を張って「自分で作ってた」とはいえませんが。
blogがここまで普及する前のそういう手作りサイトって大抵が「気に入らなかったら出て行け、管理人の意に沿わぬことはするな」という傾向が強かったといいますか。そりゃ今でもそれは大前提ではありますが、今以上にといいますか。特定の事象に対してのマンセーサイトってのは今より凄かったですよ、「批判は絶対許さん!」みたいな。
なんていうかそういうアレには同じ仲間同士の交流はあっても、違う価値観の交流はないよね、と。blogの良いところってのは、そういう自分と違う価値観の人とも簡単に交流できる、ツールが発達してきていろんな人の意見に触れて歩ける事かと。そういうのを制限しちゃって「いやなら見るな」と一昔前のホームページ風にしてしまうのは勿体無いなぁ・・・と。
ここまで書いてみて「お前はどうなんだ」と自問自答。自分は意を異にする人を拒むつもりは無いです、一応は。ただ、自分には自分なりの考えもありますし、それを理解してもらえるよう、そして相手の真意はなんなのか理解できるように努力はします。ですから積極的に意見をぶつけ合いたい。
ましてやネット上に公表する意見は誰が読むかなんて限定できない。それを、ネット上に無造作に晒したものを「いやなら見るな」というのは少し筋が違うんじゃないかなぁ、と。まぁネタとしては面白そうなんで観察はしてますが、そういうイエスマンしか欲さないというのは意見を発表するものとしては如何かなぁ、と。
それと誤解。自分も誤解された経験はあります、解く努力はしたつもりですが未だに解けてはいません。ですから年に最低2度ほどは(大抵4月中旬と9月下旬)にはそれ絡みの事を書くようにしています。しかし「誤解した奴が悪い」とは思っていません、今はね。人間誰しも同じものを見て同じように受け止めるとは限らない、それは人間の考えることにしてもそうだ。見え方に差があれば理解にも差が出て当然、そこに所謂「誤解」と呼ぶものが発生する。それは・・・発生すること自体は仕方の無いことだ。
だが人間は言葉を交わせる。誤解が嫌なら何度も何度も説明して、相手がどう受け止めているかも何度も聞いて、少しでも差を縮める事は可能だ。それをせずに「誤解する奴が悪い」というのは自身の怠慢に胸を張っているようなものだ。
意見があれば当然反論がある。誤解も生じれば説明も釈明も注意も謝罪もみんな有る。勿論その背景にはblogというツールの発展だけではなく、2chをはじめとした匿名掲示板の普及もあるだろう。かつて特定方向のみに流れていたネット上の情報は、多方向に同時に、そしてかつてとは比べ物にならないほど多種多様の情報が行き交うようになった。そのネット上に定着するのに適したツールが、そしてネット世界の変化に対し柔軟に対応できるツールがblogなのではないかと。
ただ、かつての限定的な方向への流れと比べると、今ではそれこそ背後から撃たれるような事も多々ある。そしてそれは誰でも平等な条件だ。以前よりはより覚悟が必要になったと思う。
意見を発する以上は反論されるリスクを伴う。事の次第によっては批判・非難の的になる事だってありうる。そういうことをあらかじめ予想して覚悟を決めていないと面を喰らうことになる。そういう意味では敷居は以前よりは下がったけど優しくなくなったとは思う。だからといって優しくしてあげるつもりはサラサラ無いけど。
・・・・でもこれらって全部blog無しでも出来ることとも思うし、当然のように存在することだと思う。覚悟も無く努力もせず、他者とのコンタクトを拒み続けていいことは無いと思う。まぁ俺みたいに避けられるよりはマシかも知れんが。
blogって何?と言われると「日記・・・」というのも違いますし、何かいい喩えがないかな?と思ってたら、ルパート・ジョーンズさんのところの記事中で「交流のためのツール」という言葉が。ただ発表するだけじゃないんですよね、ただ自分の意見を一方的に言うんじゃなくて、自分の意見を発表してそれに対するリアクションもある。
例えばある事について好き勝手に書いたとする。これだけならばblogでなくとも自分で日記サイトタグ手打ちで作って垂れ流すだけでもOK。そういやさるさる日記とかもありましたね、そういう一方通行のツールなら自分の意見を発表してはい終わり、良くて精々レンタル掲示板なんかで同好の志だけで楽しくやられたりとか。あ、自分は元々blogじゃなくて、自分でwebサイト作ってアレしてたクチです、まぁホタル使って作ってたんで胸を張って「自分で作ってた」とはいえませんが。
blogがここまで普及する前のそういう手作りサイトって大抵が「気に入らなかったら出て行け、管理人の意に沿わぬことはするな」という傾向が強かったといいますか。そりゃ今でもそれは大前提ではありますが、今以上にといいますか。特定の事象に対してのマンセーサイトってのは今より凄かったですよ、「批判は絶対許さん!」みたいな。
なんていうかそういうアレには同じ仲間同士の交流はあっても、違う価値観の交流はないよね、と。blogの良いところってのは、そういう自分と違う価値観の人とも簡単に交流できる、ツールが発達してきていろんな人の意見に触れて歩ける事かと。そういうのを制限しちゃって「いやなら見るな」と一昔前のホームページ風にしてしまうのは勿体無いなぁ・・・と。
ここまで書いてみて「お前はどうなんだ」と自問自答。自分は意を異にする人を拒むつもりは無いです、一応は。ただ、自分には自分なりの考えもありますし、それを理解してもらえるよう、そして相手の真意はなんなのか理解できるように努力はします。ですから積極的に意見をぶつけ合いたい。
ましてやネット上に公表する意見は誰が読むかなんて限定できない。それを、ネット上に無造作に晒したものを「いやなら見るな」というのは少し筋が違うんじゃないかなぁ、と。まぁネタとしては面白そうなんで観察はしてますが、そういうイエスマンしか欲さないというのは意見を発表するものとしては如何かなぁ、と。
それと誤解。自分も誤解された経験はあります、解く努力はしたつもりですが未だに解けてはいません。ですから年に最低2度ほどは(大抵4月中旬と9月下旬)にはそれ絡みの事を書くようにしています。しかし「誤解した奴が悪い」とは思っていません、今はね。人間誰しも同じものを見て同じように受け止めるとは限らない、それは人間の考えることにしてもそうだ。見え方に差があれば理解にも差が出て当然、そこに所謂「誤解」と呼ぶものが発生する。それは・・・発生すること自体は仕方の無いことだ。
だが人間は言葉を交わせる。誤解が嫌なら何度も何度も説明して、相手がどう受け止めているかも何度も聞いて、少しでも差を縮める事は可能だ。それをせずに「誤解する奴が悪い」というのは自身の怠慢に胸を張っているようなものだ。
意見があれば当然反論がある。誤解も生じれば説明も釈明も注意も謝罪もみんな有る。勿論その背景にはblogというツールの発展だけではなく、2chをはじめとした匿名掲示板の普及もあるだろう。かつて特定方向のみに流れていたネット上の情報は、多方向に同時に、そしてかつてとは比べ物にならないほど多種多様の情報が行き交うようになった。そのネット上に定着するのに適したツールが、そしてネット世界の変化に対し柔軟に対応できるツールがblogなのではないかと。
ただ、かつての限定的な方向への流れと比べると、今ではそれこそ背後から撃たれるような事も多々ある。そしてそれは誰でも平等な条件だ。以前よりはより覚悟が必要になったと思う。
意見を発する以上は反論されるリスクを伴う。事の次第によっては批判・非難の的になる事だってありうる。そういうことをあらかじめ予想して覚悟を決めていないと面を喰らうことになる。そういう意味では敷居は以前よりは下がったけど優しくなくなったとは思う。だからといって優しくしてあげるつもりはサラサラ無いけど。
・・・・でもこれらって全部blog無しでも出来ることとも思うし、当然のように存在することだと思う。覚悟も無く努力もせず、他者とのコンタクトを拒み続けていいことは無いと思う。まぁ俺みたいに避けられるよりはマシかも知れんが。
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